その2 頑固者?変わり者?
ふとしたきっかけから写真に興味をもった僕は、
家に帰ると、もうじっとしてなんかいられなかった。
そう・・・思い立ったが吉日!
僕は早速行動を開始した。
母の引き出しの中から、当時流行っていたポケットカメラを持ち出し、
手当たり次第、片っ端から撮影を始めた。
当時のポケットカメラとは、
ワンテンと呼ばれるコンパクトサイズのカートリッジフィルムを装填するだけなので
小学生にでも、簡単に使うことは出来た・・・だが写っている物は・・・
当然めちゃくちゃ!
それにもめげず、
時間さえ有れば天王寺動物園まで出かけて行き(小学生は無料だから!)、
動物の写真を撮っていた。
・・・でも、やっぱり写っている物は???である。
動物はまるで豆粒のように小さく、
ライオンもラクダも近所の猫も、皆同じような茶色い塊にしか見えなかった。
そこで僕は考えた・・・?
カメラが悪いんだ!!
そうだ!そうに違いない!きっとそうだ!
自分の事は棚に上げ、カメラのせいにしてしまうところが素晴らしい!?
(この発想が出来ない人は、フリーのカメラマンになると胃潰瘍になってしまう)
「まずカメラの仕組みが分からないから、上手な写真が撮れ無いんだ!」
よしっ!
思い立ったが・・・仏滅?
僕は早速次の行動を開始した。
左手には、大事にしまってあった祖父の形見のカメラ・・・
右手には・・・ドライバー
とりあえず・・・はずせる所からはずしてみることにした。
・・・・・・
しばらくして、目の前には無残なカメラのボディと、
幾つもの小さな部品が転がっている。
カメラの造りを研究しようとした僕は呟いた・・・
「益々わからん!」
僕はカメラを元通りに組立て
組み立て・・
・・・出来るはずもなく
反省はしたが・・・
懲りる事は無く
写真の基礎を学ぶ為、中学に入ると同時に写真部に入部した。
それまで、写真とはただ単にカメラにフィルムを入れて、
シャッターをバシャバシャ押せばいいだけだと思っていたが
撮ったフィルムを暗室で現像し、プリントを製作する作業の難しさ
そして・・・楽しさを知った。
一歩足を踏み込んだだけで鼻をつく酢酸の強烈な臭い。
真っ暗な中、セーフティーランプと呼ばれる赤い電球だけが
薄暗く不気味に光る暗室の中
手探りと感だけで進められる作業・・・
何とも言えない独特の雰囲気が漂う不思議な空間が、そこにはあった。
そして僕は、そこでの作業を繰り返す中で
いつしか、一から物を作り出していく事の面白さを知った。
この頃、僕は月に一回、心斎橋にあるカメラのデパート・ナニワに行き
店にあるパンフレットやカタログを片っ端から集めるのが大好きだった。
そして、その中に書き込まれている文章を
一字一句もらさず何度も何度も暗記出来るくらい読み返していた。
カメラの一部がチラッと見えただけでも
「これは○○社の×××」
なんて事が全て頭に入っていた。
これではオタク街道まっしぐら!
・・・になりそうだが、
逆に僕はどんどん外に出て行く事が増えて行って。
無料では無くなってしまったが動物園に通い・・・
初めてカメラマンを見た甲子園球場に通い・・・
写真部の先生に連れられ山を歩き回り・・・
鉄道好きの友人に誘われ、徹夜で大阪駅に着く電車を撮影した。
知らない生徒に撮影を頼まれたり、写真の注文を受けたりもした。
気が付けば
写真を通じて僕の回りの世界がどんどん広がり始めていた。
中学3年
進路を決める時期が迫っていた僕は、関西で唯一の写真工芸科のある高校を発見し
担任の先生に志望を伝えた
だが・・・
「だめ!絶対だめ!全然無理!話にならん!」
・・・これじゃ相談も何もあったもんじゃない。
担任は全く僕を相手にせず、「他の学校を探せ」としか言ってくれなかった。
まあ、冷静に考えて見れば・・・
中学に入学してから、中間・期末・実力試験といった定期試験時に
それまで僕は勉強をまともにしたことが無かった。
クラスの友人達が皆、塾に通い始め、成績や内申書を気にしだした頃、
僕は塾の前を通り過ぎ、町の空手道場にせっせと通っていた。
当然そのままでは写真科のある高校への進学など
夢のまた夢である。
僕は小学校の頃から通っていた空手道場を中学三年で辞め、
「絶対行かない!」と言い続けていた学習塾に通い出した。
人間、思い込むというのは恐ろしい。
そして、自分でも信じられないような力が出るものである(?)。
僕は小さい時から、変わり者、頑固者と言われ続けていたが
何かやりだすと、とことんやらないと気がすまない性質らしい!
・・・だがその時は、その変わり者の部分が、運良くプラスに転んだ。
ウソのような話だが、
毎日のように夜中まで勉強していても、全く苦にならなかった。
中学3年の1学期
「無理だぞ、絶対無理だからな、他の学校を探せ」
と、言い続けた担任に、僕は・・・
「他に行く気はありません」と言い続けていた。
2学期が始まると
「おい、もう諦めたか?」
と、何度も言われる日々が続いた。
僕はもう何も言い返せなかった、だが悔しくて、腹が立って
「絶対あの学校以外には行かない」という気持が益々強まっていった。
「おいっ、いい加減にしろよ!お前は中学で浪人になりたいのか!」
2学期が終わる頃、担任は苛立ち、怒り出し
そのうちに僕はほとんど相手にもしてもらえなくなっていた。
3学期はあっという間に過ぎて行き、気が付けば・・・
1980年3月15日(土)午前9時、運命の試験当日を向えていた。
通常、公立高校は学区が決められていて、受験出来る地域(範囲)が限定されていたが、
この高校は関西で唯一公立高校でありながら専門的な芸術が学べる高校として人気があり
大阪全土、そして他県からも受験に来る、
早い話が・・・
合格への倍率がとても高かった。
だから僕の受験は、担任の先生から見れば
まさに大博打の日だったと思う
だが、なぜかこの時の僕には
失敗した時のイメージは全く想像出来なかった。
そして、その想像通り・・・
一年間想い続けた高校
大阪市立工芸高等学校写真工芸科に無事入学する事が出来た。
いや〜楽しかった〜
この学校は青春ドラマの舞台か?と言いたくなるくらい
とにかく楽しかった
そしてここでの3年間、僕達は写真の基礎から専門知識までを
徹底的に勉強した
・・・はずなのだが、
当時の記憶の中で、今も鮮明に頭に残っている事と言えば・・・
クラブ活動としてまた空手を始められたこと
友人達とバイクを乗り回していつも遊んでいたこと
スキーにのめりこんでいたこと
暇さえあれば皆で集まってワイワイやっていた事
・・・・・・
肝心の写真関連の習った事と言えば・・・
ほとんど覚えていない!
それでも、まあなんとか・・・
1983年 大阪市立工芸高等学校 写真工芸科を卒業
そして、ついに僕は長年の夢、
念願のカメラマンへの第1歩を踏み出す事になった・・・?
************************
カメラマンそして写真業界の理想と現実
憧れていたプロの世界に入ったはずが・・・
まだまだ、続きを読んでやろーじゃないかという心優しい方は
その3 フリーのフの字は・・・フー太郎のフ・・・へ、お進み下さい。
裏プロフィールトップへ戻られる方はこちら