藤江 幸宏  プロフィール

以下に記載のプロフィールは、極めて私的な、私小説まがい(?)のプロフィールです。
時間を持て余してる方、カメラマン又は、藤江幸宏個人に興味のある方以外には全く退屈する内容です!

お仕事用のプロフィールが必要の方は別欄の《  》のプロフィールをご覧下さい。
裏プロフィールの内容は続き物です。その1から順にお読み下さい。

 


その 3  フリーのフの字は・・・フー太郎のフ



1983年 大阪市立工芸高等学校 写真工芸科 卒業

卒業後直ぐに、写真スタジオに就職。


そう・・・

ついに僕はカメラマンへの第一歩を踏み出し・・・


そして直ぐに


踏み外した!



カメラマンやデザイナーといった、いわゆるカタカナ職業に憧れる若者は非常に多い
だが、専門学校等を出て、実際その業界で仕事を続けている確立は

実は非常に低いのが現実だ。

憧れと現実の大きなギャップ
厳しい上下関係
わずかな給料での長時間不規則労働
仕事の中身は雑用ばかり・・・

・・・と、この手の不満が渦巻いて
1年後には半数、3年後には3割も残ってないのが現実らしい


僕の場合はというと・・・

10歳という早さで、カメラマンになる事を目標にしてしまったので
実際カメラマンになると同時に、その先の目標を見失ってしまった。

自分は一体何が撮りたかったんだろうか?
これから先、自分は何をすればいいんだろうか?

このままここでこの仕事を続けていて、本当にそれで良いんだろうか?

安い給料も、長時間労働も、あまり気にはならなかったが
仕事に対しての意義・意味・意識、
自分の中の目標・目的
そして、本来一番大事なはずの、《やる気》がどんどん薄れ・・・
そして完全に消えてしまっていた。

結局僕は、1年間そのスタジオに勤務した後、フリーになった。

しかし

この場合のフリーという意味は、単に自由になったという意味で
決してフリーカメラマンとして活躍しだしたという意味ではない。


世の中そんなに甘くは無い!


特に自分の腕一本で飯を食おうという世界、弱肉強食の世界で
なんの実績も無い奴が、いきなり羽ばたけるほど簡単な世界ではない。

そう
フリーのフの字は・・・フー太郎のフの字だった



だが、焦りは全く無かった。

スタジオ勤務中は、給料をもらっても全く使う暇が無かったので、
いくら安月給とは言え、結構な金額が溜まっていた。

僕は車の免許を取る為、教習所に通い始め、
後はひたすら大好きなスキーに明け暮れ、《弾けて》いた。

1年分溜まりに溜まったストレスを一気に吐き出し、
それと同時に・・・貯金も一気に吐き出していった。


ボールを高い位置から落とすと、最初は勢い良くまた高い位置まで跳ね返るが、
次第に弱く低くなっていき、最後には床の上で動かなくなってしまう。

丁度、僕の弾け方もそんなボールの動きのように思えた。
ストレスと言う名の強い力が、僕を高く高く限界ギリギリまで持ち上げておいて
勢い良く地の底へ叩き付けたような気がした。
勢い良く跳ね返ってはみたものの、そんな力が続くはずも無く
弾け方は直ぐに弱まって行った。



そんな僕を見かねたのか、知人が手を差し伸べてくれた。

「今度新しくスポーツクラブを始めるんだが・・・お前、体力だけは自信が有るだろ?
そこでインストラクターのバイトをする気はないか」


「体力だけは・・・」の「・・だけ・・」の部分が少し気にはなったが、
そんな事言ってられる身分じゃない。
写真と全く関係無い世界だったが、体を動かすのは昔から大好きだったので、
しばらくの間、お世話になることにした。



そして・・・

21歳の冬、
その会社から無理やリ連れて行かれた慰安旅行。

行き先は・・・

アメリカ西海岸!


この辺りの詳しい話をお知りになりたい方は、
エッセーの欄から、
《いざカナダへ!を、お読み下さい。



僕は、この慰安旅行中に、自分が長年探し求めていた物を見つけた。
写真スタジオに勤務していた時には、どうしても分からなかった《何か》を、
はっきりと見つけ出した。


旅行から戻ると、僕の生活は激変して行った。

子供の頃からそうだが、僕は何か明確な目標を見付けた時
ひたすらその目標に向ってのめり込んで行く性格らしい。

その時の僕は、正に水を得た魚だった。

それまで手にした事も無かった北米の資料やガイドブックを読み漁り、
片っ端からパンフレットを集めて回り、
あれほど嫌いだった英会話の教材を片手に
もう一度北米に行く事だけを考えて、毎日生活するようになっていた。


そして・・・
慰安旅行後、僕の頭の中に強烈に焼きついたまま離れようとしない北米の印象を
ある日、1冊のアルバムとして形にした。

数日後
僕は、そのアルバムを会社に持って行き、隣の席に座るYさんに見せた。
Yさんは、そのアルバムをじっと見つめ
「ふ〜む・・・」と言った後、突然・・・

「任しとき!」

・・・と言うと、アルバムと共に部屋から出て行ってしまった。


結局そのアルバムは、1週間ほど社内を旅した後、
驚く程大きなお土産を持って、僕の元へと帰って来た。

アルバムの横には、アルバムと同じレイアウトで《焼増しプリント申込帖》なる物が付けられ
その中には、社員からの焼増しオーダーがびっしりと書き込まれていた。

中には、丸ごと1冊同じアルバムを注文する人までいて
なんと・・・
写真の焼き増し総数は・・・千数百枚にも膨れ上がっていた!


それほど社員が多いとも言えない会社で、
この焼き増し数の多さは、驚きを通り越して、少し異常にさえ思えた。


そしてこの焼き増し枚数の多さが・・・

僕の単純な思考回路を更に強く刺激し

「アレッ、俺ってもしかして撮影の才能有るんじゃないの?」

などというとんでもない勘違いを引き起こし、
再びフリーカメラマンへの道を歩き始める大きな追い風となっていった。



慰安旅行後、僕はもらった給料にほとんど手をつけずに溜め込み、
旅行から5ヶ月後にはお世話になった会社を辞め、
更に効率の良いバイトを3ヶ所掛け持ちして
溜めれるだけ溜め込んで

再び北米へ向かうための旅費を作リ出した。




そして無謀にも・・・
西海岸だけではなく、広い北米大陸をぐるっと一周撮影して回った。


英語は全く出来ない
右も左もさっぱり分からない

上出来だと思い込んでいた写真も・・・
今、見直すと、とても使えるような代物ではない

日本に帰って来て、誰かに
「今、何をしてるの?」
と聞かれても、とても胸を張って
「カメラマンとして北米の写真を撮ってます」
・・・などとは、とても言える自信も無い!

ないないない・・・何にも無い!


それでも
僕は、北米の取材を繰り返し・・・
いつのまにか、どんどんこの大陸の魅力から抜け出せなくなっていた。



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更に続きを読んでやろうじゃないか!
・・・という変わり者の方は

その4 ・ 1枚のカレンダー へとお進み下さい。


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