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下記の原稿はモーターマガジン社・月刊カメラマン2000年7月号に掲載された内容を、ウエブサイト用に加筆・訂正を加えレイアウトし直した物です。

1ヶ月のうちに駈け抜けて行く春から秋
「グッ、グリズリーが出たぞ〜!」
数時間前、山麓で僕達を追い越して行った二人組が、
今、大声でそう叫びながら山道を駆け下りて来た。
「たっ、大変だ、この先に凄い大物が現れた、今直ぐ山を下りろ…」
見るからに山男と言った雰囲気の二人組が、息をハァハァさせながらそれだけ言うと、
後も見ずに消えてしまい、後には何とも言えない重たい雰囲気と、
無言のままの僕達だけが残されていた。
グリズリーとは、日本語でアラスカヒグマやハイイログマと呼ばれ、
大きいものは350キロ〜400キロにもなる、ロッキーで最も危険な動物の事である。
僕達はとりあえず、安全で見晴らしの良い岩に登り、
辺りを確認しながら、この後どうするか緊急の家族会議を開く事にした。

「せっかくここまで登って来たのに…」簡単には諦められない僕と…
「でも…ねっ、やっぱりやめとこうよ…グリズリーだよ…ねっ…」正論を言う妻がいた。
ここから先は、更に見通しの悪い低木が続き、熊の大好きなベリーが豊富に実る。
熊を避けて進むと言っても、麓から山頂まで、登山道はこの1本のみ、
あとは急斜面で、とても人が歩けるような場所は無い。
直ぐにでも山を下りたい妻と、どうしても先に進みたい僕とでは、
話はいつまでたっても平行線のままで、多数決をしても決まるわけも無い…
「危ないよ、下りましょうよ」
「でもな…2ヶ月半もこのチャンスを待ってたんだ、一旦トレイルが閉鎖されたら…
もう来年まで撮れないかも知れないんだ…」
辺りにも、トレイルの前後にも、他にはもう全く人影は見当たらなくなっていたが、
僕にはどうしても諦め切れなかった。
さっきの2人組がグリズリーの出没した事を報告すると、このトレイルは直ぐに閉鎖されてしまうだろう。
一旦下山すると、もうチャンスは無い・・・
僕は天を仰ぎ、大きく「ふ〜っ」と息を吐いていた。
「雄大な高原と咲き乱れるワイルドフラワー」
・・・と言うテーマで、この年の撮影旅行を続けていた僕が、
最初にこのセルカーク山脈にやって来たのは5月中旬の事だった。
平野ではもうすっかり初夏を思わせる陽気だったのに、
この辺りにはまだどっかりと雪が残り、地元の観光局も閉鎖されたままだった。
その時点で僕の手元に有る資料は一枚の写真と
「春から夏にかけて咲き乱れるワイルドフラワー」と言う、たった一行の簡単な説明だけだった。
詳しい場所や季節は記載されていない、
一体どこへ行けば良いのか、正直なところ僕には良く分かってはいなかった。
それでも、どうしてもその写真に写っている高原と野花を自分の目で見てみたかった。
「一体ここにはいつ春が来るんだ…」
その後、何度もこの地に足を運ぶのだが、いつまでたっても山は厚い雪で閉ざされたままで、
結局、僕達が高原への道を歩き始めたのは、もうカレンダーが8枚目に入った真夏の事だった。
首が痛くなりそうなほど背の高い針葉樹の森を抜け、
新緑の落葉樹の森を通り、不安定な岩場を渡り、
やっと灌木と緑濃い草原に辿り着いたところで、いきなりこのグリズリー騒ぎだ。
……目指す野花の高原は、もう直ぐそこだと言うのに…
つい先日まで雪に覆われていた高原は、
駆け足で春から夏へと移り、早ければ来月には再び雪の下へとその姿を隠してしまう。
「撮影のチャンスは今だけなんだ…」
岩の上の家族会議を続け、僕はようやく妻を説得した。
両足と荷物に熊除けの鈴をいつもより2個づつ多めにくくり付け、
首からは高周波の笛をぶら下げ、左手に熊撃退用スプレー、
右手には、いざと言う時に武器になる三脚を握り締めて、ようやく重たい腰を上げた。
動く度に全身の鈴がジャラジャラと鳴り、
笛を吹きつつ、恐る恐る登って行く、重い機材が益々重く感じられた。
しばらく登ると・・・
なぎ倒された草、まだ暖かい大きな糞、
熊の形跡が次々に目に飛び込んで来て、益々緊張が高まっていく。
だが・・・
次第に恐怖以上の興奮が、僕達の背中を強く押し始めていた。
長く続いた灌木のブッシュを抜けた途端、一気に目の前の視界が開けたのだ。
そこには眩しいくらいの新緑のグリーンと、華やかなワイルドフラワーが鮮やかに輝いていた。



長い間降り積っていた大量の雪が、山への入場を制限し、
グリズリーが現地の警備を担当している…と言ったところだろうか。
目の前に広がる手付かずの自然は、
僕の持っていた一枚の写真からは想像もつかないほど素晴らしかった。
僕は直ぐに機材をセットし夢中でシャッターを切り始めた。
わずかなこのチャンスを物にしようと思っているのは僕だけじゃない。
草も花も虫も、そしてグリズリーも、この厳しい環境の中で生きる全ての者が、
短い時間を楽しむ為に活き活きと行動しているように思えて来た。
そしていつの間にか僕は、撮影も止めてしまい、
誰もいない高原の真中で大の字になって寝転がっていた。
360度見渡す限りの自然が広がる中、僕達以外他には誰もいない。
そんな中で、だただボーっと辺りの景色を眺めている事が、何とも言えず贅沢な気分だった。
「ふぅー気持いい…やっぱり登って来て良かったね…」

グリズリーの事はすっかり忘れてしまったのか、
嬉しそうに残雪をかじりながら、妻がそう言った。
あれほどブンブンうるさく感じた虫達も、もうあまり気にならない。
小さな野花と同じ目線から見る高原が、最高に素敵に思えて来た。
長く厳しい冬から目覚め、春から夏へと一気に駆け抜ける8月、
そして9月には再び深い雪に覆われてしまう。
ここにはそんな少し歪んだ四季がある。


だが、短い中に凝縮された素晴らしい季節が、
手付かずのまま残っている事の素晴らしさを、僕達はほんの少し知る事が出来た。
「ここのグリズリーは最高の贅沢を独り占めしているみたいだな…」
僕達は再び、ジャラジャラ・ピーピィー・・・鈴と、笛を鳴らしながら、ゆっくり山を下り始めた。