ビッグボスの角切り

 

巨大なハーレムを守って来たエルク(大角鹿)の親分・ビッグボス
ある日ビッグボスの角が切り落とされた…





物静かな季節、 秋




…だがそれは動物達にとって戦いの季節でもあった。



 吹き抜けて行く風の匂いが少し変わった様におもえた……
もうそろそろ秋も本番である。
 

 この季節、山にこもって撮影をするに当たり、幾つか注意する事が有る。
 急激な気温の変化、積雪対策、落葉広葉樹の分布や紅葉の情報収集……
そして忘れてならないのが、
交尾期を迎え異常に気の荒くなっている動物に対する知識だ。
 
 
 九月中旬、
僕は黄金色に色付くカナディアンロッキーを撮影する為、秋のキャンプ生活を始めていた。

 夏の間、一体何処から集まって来たのかと思うほど多くのキャンパーで賑わっていたキャンプ場も、
もうすっかり元の静けさを取り戻し、
カメラマンや登山者等のごく一部の変わり者の姿しか見かけない閑散とした雰囲気が漂っている。
しかし、そうなると今度は人間に代って多くの動物達でキャンプ場は賑わい始めるのだ。

 彼らが集まってくるのは、単にキャンプ場から人がいなくなったと言う事だけではない。
夏の間あまり動物達に食い荒らされていないキャンプ場には
食料である植物が豊富に残っている。
更にこの時期、山頂付近には初雪が降るため
夏場なかなかお目にかかれなかった動物までが、麓に姿を現すようになってくるのだ。
これはカメラマンとして、ただ撮影することだけを考えれば嬉しいことなのだが、
その場に長期間キャンプをしながら滞在するとなると、喜んでばかりもいられない。

なぜならこの時期、多くの動物達は交尾期を迎えるのだ。

 カナディアンロッキーのシンボル的存在であるエルク(大角鹿)にとってもそれは同じ事で、
九〜十月にかけて交尾の時期を迎えていた。

しかし一夫一婦制をとらないエルクにとって、
それは同時に戦いの時期でもあった。

 縄張りを主張し、力を誇示し、雌を奪い合う激しい戦いに勝った極一部の強い雄だけが、
多くの雌を引き連れてハーレムを形成することが出来るのだ。

 過酷な自然環境の中で生きて行く事を考えた場合
少しでも強い雄の子孫を残すと言う事が、種の維持と言う事に直結するのだろうが、
キャンプをしながら山の撮影を続ける僕達にとっては、これが少々問題の種となる。

 まず、ハーレムを作れない雄達が、雌を求めて一晩中キャンプグランドをさ迷い歩き、
その足音と「ヒューイ、ピューイ」と言う何とも奇妙な彼らの声のおかげで、
慢性的な寝不足に陥ってしまうのだ。
 
そして逆にハーレムを持つ雄は、
異常な程に神経質かつ攻撃的になり、
自分のハーレムに近づく者には容赦無く襲い掛かってくる

ある日撮影を終えて、キャンプ場に戻って来た僕達が出会ったエルクは、
正にそんな典型的な奴だった……
 




この時期、エルクのハーレムと遭遇する事自体は決して珍しい事では無い。
だがこの日僕達が出会ったハーレムは、今までに見たことの無い程の巨大な物だった。


 「ちょ、ちょっと見て…ほら、あの丘の上」
 車を運転していた妻が思わず叫んでいた。
 「すっ、凄い数だなー…こんなばかでっかいハーレム見たことが無い……」
 僕の声もかなり興奮していた。

…そして、その声はわずか1分後には絶叫へとと変わって行った。
 
この様なハーレムを観察する場合、まず最初にするべき事は、
ボスである雄のエルクの位置を確認し、安全な場所を確保して、
出来るだけそこから動かないで観察をすると言うのが鉄則である。

……が、

この日の僕達はあまりのハーレムの大きさに目を奪われ、
加えて車に乗っていると言う安心感からか、少し油断していたのかも知れない。

本来なら停止すべき所を、5キロ程のノロノロしたスピードで
そのままハーレムの横を通過しようとした…

 ……その時だった…
 
車の直ぐ横の茂みが突然大きく揺れ、中から大きな大きな黒い影が立ち上がった。
 
「ボスだ!…」
 
反射的に僕はそう呟いていた。


それは、これまで僕達が出会った数多くのエルクと比べても異様な程に大きく、
その角は一方だけで裕に1メートル50センチを超え、
正に凶器のようだった。

 そして有ろう事か、そのエルクはいきなり僕達の方にその凶器のような角を向け、
威嚇の体制に入ったのだ。

 「やっ、やばい…近すぎる」

 それは、もはや警戒の段階では無く、最終の攻撃態勢と言ってもよい状態だった。
 
しかし車を運転している妻は、前方のエルクの群れに気を取られていて、
直ぐ横のボスにはまだ気づいていない……
僕は出来るだけ妻を驚かさない様に、低く静かな声でこう言った…
 「スピードを少し上げてくれ…」
 しかし前だけを見ている妻にはまだ状況が良く理解出来ていない
 「えっ、何?…何か言った?……」  
 「アクセル、アクセルを踏むんだ!」
 僕の声が少し大きくなった…
 そう言いながら、僕はチラッとボスの方を見た…

…が、これがまたまずかった

僕はまともにボスと目が合ってしまったのだ。

 野生動物のテリトリーにいきなり飛び込んでしまった場合、
動物と目を合わさないと言うのも、山での大原則なのだが、
この日の僕達はやる事が少しずれていた。

 当然《ガン》付けられたボスが黙っているはずが無い。

大きな角を真っ直ぐこちらに向けて、物凄い勢いで車目掛けて突進して来た。

 「アクセル!アクセルだ!思いっきり踏み込め、はっ、早く今すぐだー」

 ブゥォーーー……

 物凄い砂煙を巻き上げながら、僕達の車は猛スピードで走りだした。
 
ダダダダダ……

 直ぐ後ろを、ボスの角が真っ直ぐこちらに向かって突進してくる。

 「ギャ〜〜〜〜」

 …………

 両手にびっしょりと汗をかいた僕達は、どうにか間一髪でその場から逃げ去った

車とボスとの間には、おそらくあと数センチしか残っていなかっただろう、
あれだけの巨体で突っ込んで来れば窓ガラスなど有ったところで何の意味も持たない。

僕達はしばらくしてからジワジワと恐怖心が沸いて来た。
そして長期に渡る山での生活で、少し緊張感を欠いていた事を反省した。



車に向かって突進して来た場所には、はっきりとエルクの踏ん張った跡が残されていた

   
道路際に野生動物が現れると、カメラを持ち出す観光客で、辺りは突然賑わい出す
・・・だがそれは絶えず危険と隣り合わせでもある。



しかし、幸か不幸か早くもその翌日、
僕達は、意外な場面で奴と再会することになった。

 
 秋の黄葉撮影が一段落した僕は、ジャスパー国立公園を西に向かって車を走らせていた。

……と、公園内に在る小さな丘を取り囲むようにして、
パーククワーデンの乗る専用の4WD車がずらりと並んでいるのを発見した。

 パークワーデンとは、この国立公園の管理全般にわたって活動している、
言わば公園保安官の事である。

彼らは通常2人位の小人数で1チームとなり、広い公園内に散らばってそれぞれに行動するのだが、
この日は小さな丘の上に大勢が集まり、何やら真剣に話し込んでいる様だった。
 
僕は直ぐに車を止め、カメラに望遠レンズをセットし、丘の方へと向けてみた。
 …そして、真剣な表情で話し込むパークワーデンの更にその奥の草原に、
見覚えのある奴の姿を発見した……

 「奴だ!間違い無い、昨日のボスだ!」

  カメラのファィンダーを覗いていた僕は思わず叫んでいた。

…と同時に、昨日の恐怖が鮮明に頭に浮かび上がって来た。

 奴は相変わらずかなりの数の雌達を引き連れ、
その巨大なハーレムの中央で悠々と草をついばんでいた。





 一体これから何が始まろうとしているのか、
僕は更に長い超望遠レンズに付け替え、再びパークワーデンのいる丘の方へと向けた

……そして驚いた! 
 
 彼らの手には遠目にもはっきりと分かる大きなライフルが持たれていたのだ。

 「まっ、まさか…鹿狩り……」

 僕は真相を確かめる為、無線連絡をしていた若いワーデンに近づき、尋ねてみる事にした
……しかし

 「鹿狩り?…違う違う、角切りだよ、角切り」
 …と、彼は冷静な口調で教えてくれた。
 
奴は《ビッグボス》と呼ばれ、
この辺りで1番のハーレムを形成する超大物のエルクだと言う事。
更に、異常な程に攻撃的な性格の持ち主で、
毎日のように、人や車を襲う事件を起こしている事。
そしてこれ以上放置しておけずに、最終手段として麻酔で眠らせておいて、
その間に角を切り落とすと言う事を…… 
 
 僕は急いで望遠レンズを三脚にセットし直し、事の成り行きを見守った。

 ファィンダ―を覗きながら僕の中に最初に沸いて来たのは、
自然写真家等と言うには程遠い気持ち、いわゆるパパラッチの心だった。
とにかく滅多に見ることの出来ないスクープを撮影しているんだという緊張と興奮から
夢中でシャッターを切っていた。

 しかし、シャッターを切り続ける内に、
心の中に何とも言えない不思議な気持ちが芽生えていくのが分かった……





 決してビッグボスは殺されるという訳では無い。
角が切られたところで又生えて来るという事も十分に理解していた…
…だが、ファィンダ―の中に写るビッグボスと呼ばれた大角鹿の親分の、
何とも哀れな姿、
淡々と進められて行くワーデンの作業、昨日の出来事の恐怖、
開発と言う名の元に行われる自然破壊、
どんどん追い詰められる中で、あれだけのハーレムを維持して来たビッグボスのストレス、
そして野生動物の知識など全く持たずに山を単なる観光地と勘違いして訪れる多くの一般客
シャッターを切りながら様々な事が僕の頭の中を渦巻いていた。



麻酔をかけたうえ、男三人掛かりで抑え付けて、作業は進められた





パークワーデンの角切り作業をじっと見守るハーレムの雌達


昨日の事件にしても、僕達が車を止めてしばらく様子を見れば良かったのかも知れない。
毎日の様に人が襲われると言っても、
その大半は人間側の野生動物に対する知識の低さから起こった事件なのに、
その責任はいつも自然の側に負わせるのだ。

それも人間の目から見た一方的な理屈によってである。

 目が覚めた時、急に頭が軽くなっている事に気づいたビッグボスは一体何を思うのだろうか、
角の無くなったボスの事をハーレムのメス達は今までと同じようにビッグボスと認めるのだろうか、
角の無くなったビッグボスがはたしてハーレムを守って行くことが出来るのだろうか……
 
 僕がそんな事を考えている間も、慣れた手つきで確実に作業は進められて行った。
 





 しかし、しばらくしてワーデンの一人がしきりに時間を気にしだした。

 予定では約15分でビッグボスは麻酔から目が覚める。
次第に辺りには何とも言えない重い空気が流れ、
残り時間が5分を切ると、見ている側にも緊張が高まって来た……
 
僕はカメラから目を離し、手の汗を拭いてから、横で見ている妻に向かって呟いた。
 「ちょっとやばそうだな……」
 しかし、残り時間がそろそろ1分を切ろうとした時…どうにか全ての作業が終了した。


 



切り落とされた角の大きさが良く分かる


額の汗を拭い、道具を手早く片付け、全ての作業を終えたワーデンの顔に安堵の表情が戻った。
遠巻きに見守っていた見物客の中からは、自然と拍手が湧き起こっていた。
 
だが、この拍手は一体何に対する拍手なんだろうか…
あの角切りにはもっと深い意味が有るんじゃないだろうか…
パークワーデンの行った角切りの作業は、確かに公園を管理して行く上で重要な作業なのは良く分かる、
だが、この公園とは一体何なんだろうか、
地図の一部をグルッと腺で囲み「明日からこの地域は公園です」と言ったところで、
ビッグボスにしてみれば数百キロ離れた山も、角を切り落とされたこの丘も、
何ら変わりの無い自然なのだ、
自分達が生きて行く為に食料の有る場所を探し、ハーレムに近づく敵と戦う……
人間が山にやって来るずっと前から行われていた彼らの生活を、
ただ守ろうとしていただけなんじゃないだろうか。





角の無くなったビッグボスを不思議そうに見つめる雌達。彼はハーレムを維持していけるのか


 近年、自然保護、共存・共生等と言う言葉がやたらと飛び交うようになって来たが、
これらの言葉の持つ意味を、もう一度深く理解し直す時代になっているのではないだろうか…
 
僕は機材を片付けながら、そんな事を考えていた。


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