アライグマ物語
第五章 リリース




「えっ…いっ今からですか?・・・
はっ、はい分かりました、すぐに出ます…」


 日曜の朝、それもまだ六時半だと言うのに、
僕は一本の電話に叩き起こされた。


 クリティ・ケアの施設で保護されていたアライグマ達を、森に返す日がとうとうやって来たのだ。

 このアライグマの撮影を始めてから、早くも三度目の春を迎えていた。

なぜならアライグマを森に返すリリースポイントは、
部外者には絶対に教える事の出来ない極秘事項なのだ。

 
 実際、施設で働く人達に聞いてみても、いつどこへ放すのかは、
当日その日のリーダーに聞くまで、一切分からないと言う徹底振りで、
僕も三度目の春、ようやくアライグマのリリースに立ち会う許可をもらう事が出来たのだ。



 「一時間後にハイウェーの○○出口で待て…」

 ほとんど誘拐犯との身代金のやり取りのような指示に従い、私は急いで車を走らせた。  


そして・・・





「ウワッ…痛…ててて…」

 舌を噛まないように必死で歯を食いしばってはいるが、
あまりの揺れの凄さに、ついつい声が漏れてしまう。

この撮影を申し込んだ時、しつこい位に何度も車の事を聞かれた事を鮮明に思い出した。

 「四輪駆動車か?タイヤは?車高は?オフロードでの運転経験は?…」

 「だっ、大丈夫、問題無い」

…とは言ったものの

目の前に続く道(らしき物?)は、僕の予想を遥かに越えた凄まじい物だった。



ハイウェーから幹線道路、そして未舗装の道に入り、
ついには岩だらけのデコボコの急斜面を走り始め、既に車で三度も川を越えていた。

 今日のリリースのリーダーであるレイさんのピックアップトラックは何事も無いように、
このとんでもないコースをどんどん山の奥深くへと突き進んで行くが、
車一台分の幅も無いような場所に何度も差し掛かり、
その都度、ギリギリ、ガリガリと両側から伸びた木の枝が、
車のボディーを勢い良く擦り付けて行った。 


 レイさんのトラックとの距離はどんどん開いて行き、
僕の中に不安の芽が膨らみ始めた頃、
ようやく目的の場所に着いたらしい。

いや、もうそれ以上は車で進めなくなった…

と言うのが正解だろうか。


全く、一体どうやってこんな場所を探し出したのか、
不思議で仕方が無いような、とんでもない山の中だった。
 




 僕が機材のセットをしている間に、
アライグマが入れられているケージが、次々とトラックから降ろされて行く。  
 
「キュルルル…グルルルー」

・・・と、少し怒ったような声が響いて来た。

長いドライブ、しかもひどいガタガタ道を乗り越えて来たからか、
その声は皆、随分興奮しているようだった。


 ケージに近づき中を覗き込もうとすると、いきなりヒュッと目の前に鋭い爪が飛び出て来て、
僕は慌てて体をのけ反らせた。
横にいたボランティアの一人から

「気を付けて!・・・近付いちゃだめよ」

・・・という声がすぐに飛んで来た。

そうだ、今の彼らは、もう以前のような人懐っこい愛嬌者ではないんだ。
森に帰る為、トレーニングを積んだ、半分は野生化されたアライグマなのだ…





 しばらくして、アライグマが少し落ち着くと、
ボランティアの人達は一人一つづつケージを持って、森の中へと歩き始めた。

今日リリースするアライグマは合計五匹。
ボランティアの人達もそれに合わせて五人が参加している。

 ここから先、原生林の生い茂る森の中を進むのだが、
わずか数百グラムだった彼らは、既に十キロ近くにもなっていて、
険しい森の中を実際のリリースポイントまで運んで行くのはかなり大変な作業だった。

斜面を登り、岩を乗り越え、崖を下る。

少し歩くと休憩し、また少し歩くと休憩する。

これは彼らを運ぶ事がかなり体力の要る仕事であると共に
彼らを落ち着かせ、森に慣らす為に、しばらく歩くとケージを地面に置き、
出来るだけ興奮させないようにしているのだ。
 



ケージの中からじっと辺りの様子を伺っている彼らの不安な気持が伝わって来る。

辺りには針葉樹と落葉樹が微妙に混ざり合う苔むしたジャングルのような原生林の森が続き、
午前中だというのに、森の中は薄暗く、
風はひんやりとしているのに、じっとりと体に纏わり付くような気がした。

どれくらい歩いただろうか、どこからか微かに川の流れる音が聞こえて来て、
一気にレイさんの足が速まった。

そして一本の大きな木の下まで行くと、こちらに振り向き、
落ち着いた声でこう言った。

 「よーっし、着いたぞ」

 僕には、もうどこをどう歩いて来たのか、
360度すっかり苔むしたジャングルに囲まれ、今いる位置さえさっぱり分からないでいた。
 

 アライグマの入れられたケージが5個、木の下に静かに並べられ、
一番若いボランティアのクリスティがそっと中を覗き込みながら、何かを話し掛けている。


既にかなり野生化し、強暴になっている彼らだが、
なぜかクリスティに対してだけは、どのアライグマもとても友好的で、
彼女の声を聞いているうちに、次第に落ち着きを取り戻して来たようだ。
 

 「そろそろいいかな…」

 少し離れた岩の上から、その様子を眺めていたレイさんが、クリスティに言った。

 クリスティは静かに一つづつケージの扉を開け始めた。





僕はてっきり、扉が開くと同時に、彼らは故郷である森の中目掛けて走り出すものと思い込んでいたのだが、
実際はその逆だった。

扉が開かれた後も、彼らは不安そうになかなかケージから出ようとはしなかった。


冷たい風が吹き抜け、木の葉がカサカサ揺れる森の様子をただじーっと伺っていた。


 少し離れた倒木の上にボランティアの人達が腰を下ろし、いろいろ彼らに向かって話し始めると、
その声に誘い出されるかのように、ケージの奥からそろそろとアライグマが顔を見せ始めた。

 眩しい日差し、聞いた事の無い川の音、始めて嗅いだ匂い…

元々好奇心旺盛な彼らがいつまでもおとなしくしているはずも無く、
一旦外に出てしまうと、彼らはすぐに活動を開始した。

 木登りを始める者、川で水遊びをする者、集まってゾロゾロと辺りを探検する者…
楽しそうで、それでいて少し不安そうで、
なんだかその姿は、子供の頃に自分が山で遊んでいた姿に重なって来て、
見ていて不思議な懐かしささえ覚えてしまう。


    


 クリティ・ケアの施設の中で、ボランティアの人達の愛情に包まれ、
何不自由無く、優雅に暮らしていた彼らを最初に見た時、
僕はただ「可愛い」と言うだけで、ペットの動物と同じように見ていた気がする。

・・・だが、

この広い森の中を自由に歩き回る彼らの姿を見ると、
やはりこれが本来の姿なんだと、改めて考えさせられてしまった。
  


 ところがここで困った事が発生した。

今まで見た事も無い岩も木も川も、何もかもが彼らには目新しく新鮮ではあるが、
それらはあくまでも遊ぶ為のおもちゃであって、安心して眠れる場所では無いのだ。

遊び疲れた彼らは再び住み慣れた場所、ケージの置かれた場所に戻って来てしまったのだ。

        


 一生懸命ケージの扉を開けようと、ガタガタ押したり引いたりしながら
ボランティアの人達の顔をチラッと見る、そしてまた扉のガタガタを繰り返す。

しかし、どんなにケージの回りをウロウロしてみても、
上に登ってユサユサ揺らしてみても、もう誰も扉を開けてはくれなかった。


リーダーであるレイさんが、黙ったままケージの一つを持ち上げ、
少し寂しそうな表情を浮かべながら、車へと歩き始めた。

その後を、複雑な表情をしたボランティアの人達が、一人また一人と続き、
とうとうその場にはクリスティとその母親ペニーだけになってしまった。


ペニーが出発を促すが、クリスティはなかなかその場を離れようとはしない。

アライグマ達も異様な雰囲気を感じ取ったのか、
落ち着かない様子で、クリスティの回りをウロウロして離れようとはしなかった。
 
 もう既にレイさん達の姿は見えなくなり、ペニーの表情に不安がよぎる。
クリスティは彼らを順に膝の上に乗せると、軽く抱きしめ短くキスをした。





すると、まるでおまじないにでも掛けられたように、彼らは再び森に入って遊び始めた。

 彼らが戻って来ると、益々別れが辛くなる。
ペニーがクリスティの腕を取り、ようやく二人が歩き始めた。

・・・だが

そこにはもうレイさん達の姿は無く、歩き始めてすぐ、
我々は進むべき方向が分からない事に気が付いた…


アライグマ物語 6へ続く




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